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不妊治療について

習慣流産

習慣流産とは、妊娠は成立するものの、続けて3回以上の流産を繰り返す場合をいいます。しかし現在の少産少死の時代では、2回流産を繰り返した場合(不育症、反復流産)も治療の対象となる場合もあります。
一般的に10人が妊娠した場合、その内の1人から2人は流産になってしまいます。また、流産を起こした10人の患者さんの原因を調べると、そのうちの7割が偶発的な染色体異常(配偶子(卵子・精子)がつくられる際の異常、受精の異常などが原因となり起きます)が原因で、育ちようがなかった場合で占められます。一説には85%染色体異常ともいわれています。しかし何回も流産を繰り返す場合には、すべてが偶発的な染色体異常である確率は、回数が増せば増すほど低くなります。

そこで、流産を繰り返す場合には、他に特別な原因があるのではないかということになります。それでは、習慣流産の原因とは一体なんでしょうか。
一般的に医者が発言するときには エヴィデンス・ベースド・メディシン/evidence based medicine といって、実験や詳しい研究調査によって文献的に証明されていること、確実にデータとして証明されていることのみしか話すことができないのが常です。ですが、私の全くの私見を交えて進めたいと思います。
私は、今までに習慣流産の患者さんをおそらく300カップル以上、検査治療を行なってきていています。これだけの数の経験を持っている個人としての医者は、この近辺にはそう何人もいないのではないかと思います。もしかすると学問的には完全に否定されることもあるかもしれませんが、今までの治療経験をして、感覚として感じていることも含めて話をさせていただきます。



原因には、女性・男性それぞれにあります。以下に列記します。


男性側の原因


1. 染色体異常

男性側の原因はこれだけです。もちろん精子形成の際の異常もありますが、事前に検査できることではありません。




女性側の原因


1. 染色体異常

男性側の原因と共通です。偶発的な染色体異常ではなく、もともと自身に染色体異常がある場合があります。
一般的に患者さんは、ご夫婦とも普通の社会生活を送られている方々なので、決定的に子供ができないという染色体異常のあるケースはあまりありません。多くは転座といって、ある染色体の一部分が千切れて他の染色体にくっついているというものです。単純な転座から、相互転座、ロバートソン転座などいろいろな種類があります。

異常の種類によって、理論上は1/4の確率で正常な子供が、1/4の確率で自分と同じ異常を持った子供(自分と同じわけですから当然、通常の社会生活は送れるわけです)が産まれるという場合もあります。しかし、これはあくまで机上の話で、実際の減数分裂、配偶子形成から受精の過程を経る場合には、これよりも正常である確率は低くなります。

治療
現在の段階で、治療方法はありません。異常の種類によっては(転座があるとき)、理論上は1/4の確率で正常な子供が、1/4の確率で自分と同じ異常を持った子供が産まれるという場合もあります。この場合には数を打てば当たるではありませんが、うまく子供ができるまでトライを続けていただくしか方法はありません。
現在、当院で進めているプロジェクトに着床前診断があります。この方法は、体外受精を行ない、できた分割卵から割球(細胞)を一つだけ取り出し、その染色体検査を行ないます。そして、異常の認められない受精卵のみを子宮の中に戻してあげるというものです。すなわち着床する前の段階で染色体検査を行なう、着床前診断というわけです。

習慣流産の患者さんは妊娠はするわけなので、本来、体外受精は必要ないのですが、着床前診断を行なうためには体外受精による治療が必要不可欠になります。この方法を用いることにより、染色体異常のある方の、何回も繰り返される流産の悲しみからの回避が可能になります。

上述のように現在当院では準備をしている段階なので、実際に行なえるようになるまでには、最低あと約1年が必要と思われます。一生懸命にやっていますので、申し訳ありませんが今しばらくお待ちください。ただし、基本的に承知しておいていただきたいことですが、体外受精の成績は当院の場合約35%です。着床前診断をして正常な受精卵のみを移植しても、一回で必ず子供ができるわけではありません。




2. 子宮異常

a)粘膜下筋腫

子宮筋腫があるということで、必ずしも習慣流産となるわけではありません。ただ、粘膜下筋腫という子宮内腔に突出した様な筋腫がある場合には、流産の原因となる場合があります。粘膜下筋腫がある場合には、通常の月経が重くなり、長引くような傾向があります。

治療
原因と考えられる場合には、手術療法が望ましいです。大きさによっては子宮鏡下で筋腫を取ることも可能です。



b)子宮奇形  

子宮の奇形がある場合も、必ずしも流産になるわけではありませんが、習慣流産の1つの原因と考えられます。特に双角子宮といって、内腔が途中から2つに分かれている場合に起きやすいといわれています。

治療
手術療法が基本ですが、まずは次回、妊娠にトライして、再度失敗に終わったならば選択しています。前述もいたしましたが、必ずしも流産の原因とはならないと考えています。




3. 甲状腺機能亢進症

治療
対症療法を行ないます。




4. 糖尿病

治療
対症療法を行ないます。




5. 感染症

トキソプラズマ、サイトメガロウィルス、ヘルペスウィルスなどの感染症が流産の原因となります。しかし、ただ一度だけの流産の原因にはなっても、すべての流産の期間、一つの感染症が継続している場合は希であり、習慣流産の原因とはいえません。しかし偉い先生たちが検査項目だと言っているので、ここには挙げています。しかし、ほとんど検査していないのが現在の実際です。

治療
対症療法を行ないますが、習慣流産の原因ではないので、習慣流産の治療としては行なっていません。




6. 膠原病

この病気は、自分自身の中で自分自身の組織に対する抗体を作ってしまい、自身を攻撃してしまうというものです。膠原病にはいろいろな種類があり、皮膚、関節、腎臓、肺などに障害が起きます。
妊娠した場合、この抗体が胎盤の血管内に血栓をつくり、子宮内胎児死亡を起こします。習慣流産の大きな原因の一つです。妊娠が成立したならば、充分な管理が必要となります。

治療
下記の「凝固XII因子活性低下症・治療」の項目を参照してください。




7. 抗リン脂質抗体症候群

膠原病と同じ様な疾患です。リン脂質というのは、細胞膜を構成している成分の一つです。このため、この抗体が存在すると、膠原病と同様に胎盤の血管内に血栓をつくり、胎盤の機能が悪くなり、胎児死亡を起こします。

治療
下記の「凝固XII因子活性低下症・治療」の項目を参照してください。




8. 凝固XII因子活性低下症

凝固XII因子の活性が低下すると、凝固が起きやすい、すなわち血栓症が起きやすい状態となります。膠原病・抗リン脂質抗体症候群と同じ状態となり、子宮内で胎児死亡が起きるといわれています。この症例の中には、抗凝固XII因子抗体陽性という方もいます。

治療
膠原病と抗リン脂質抗体症候群、凝固XII因子活性低下症は同様の治療を行ないます。
妊娠が成立したならば、小児用バファリン(血栓形成の予防効果があります)と柴苓湯(副腎皮質ホルモン様の作用があります)という漢方薬を使用します。さらに必要であれば、副腎皮質ホルモンを加えます。これでも抗体価が低下しないようであれば、抗体を吸着して低下させるという血液透析が最後の方法となります。しかし大変高価な治療で、研究機関病院でしか行なえません。必要な場合には紹介いたします。




9. 原因不明(免疫異常)

以上1〜8までに含まれないものを原因不明の習慣流産といいます。現在でも免疫異常として扱っている施設もありますが、まだはっきりした原因はわかっていません。
妊娠とは、半分は自分と同じ遺伝子をもってはいるものの、半分は血族的には全くの他人の夫の遺伝子をもっている胎児が、子宮の中で育っていく状態です。
肝臓移植や腎臓移植を考えていただければわかると思いますが、通常は他人の臓器は拒絶反応を受けてしまい、生着しないのが普通です。臓器移植の成功の秘訣は手術の善し悪しの他に、術後の拒絶反応の抑制を如何にうまく行なうかにかかっています。

妊娠を、自分と同じ遺伝子をもってはいない胎児という異物が、子宮腔内に移植されると捉えるならば、移植学の上では、本来ならば胎児は異物として拒絶反応を受け、流産になるということが正常であると考えられます。しかし妊娠においては、10カ月という期間ではありますが、拒絶反応が起きないで子宮の中に生着していることが正常であり、流産を起こすことが異常になります。学問的には大変に興味ある、おもしろい点です。なぜなのでしょう?

以前は、母親と父親の主要組織適合性抗原(HLA*)の共通性が高いと、流産になる確率が高くなるといわれた時期もありました。いまでも、このように説明をしている施設もあります。しかし、その後の研究で、私自身もこれに関する研究も行ないましたが、共通性の高さと流産との間には関係がないことがわかってきています。(胎児と母体の接触面には他のHLAのように何種類もあるものではない、多型性のないHLA-Gという抗原が発現していて、この抗原が重要な働きをしているという示唆はあります)
なぜ流産を起こすのか、言い換えればなぜ妊娠は拒絶反応を受けることなく継続するのかという疑問に関して、未だ正確な回答はできないのが現状です。一つの仮説として、現在の時点では以下のように説明しています。

正常妊娠では、異物である胎児に対しての攻撃、拒絶反応は起きるが、それを防御してくれる抗体(遮断抗体)が作られるために妊娠は継続する。しかし、流産を起こす患者さんはこの抗体の産生が悪いために防御することができず、拒絶反応を受けてしまうという説明です。この遮断抗体として働くものが夫のリンパ球に対する抗体であり、夫の血液を分離してリンパ球を皮下注射すれば遮断抗体ができる、というのが現時点での説明です。

*主要組織適合性抗原(HLA)
血液型と同様に組織型というものがあります。この組織型をヒトの場合にはHLAとよびます。血液型ではメジャーなものはA、B、O、AB の4タイプと Rh+、ーの組み合わせで8通りに分かれます。HLAはA、B、C、DR、DQ、DPと主要なものだけでも6つのローカスがあります。(現在はさらに増えています)
そしてHLA-Aには26種類、HLA-Bには56種類、HLA-C に10種類、HLA-DR に24種類、HLA-DQ に9種類、HLA-DP に6種類の抗原があり、個人はそれぞれのローカスに2つずつの抗原を有しています。

たとえばある人は、A9、A19、B37、B44、CW1、DR1、DR14、DQ6というように表されます。その組み合わせは数え切れないほどになり、個人の識別にも使用されています。臓器移植では、このHLAの型を合わせることが、拒絶反応を抑える第一歩になります。

治療
上記でも説明した通り有効性はわかりませんが、一応、夫のリンパ球を用いた免疫療法の対象になります。
実際には、夫より1回50mlの血液を採血し、それを分離してリンパ球のみを回収し、患者さんの上腕に皮下注射します。これを1週間に1回、計6回行ないます。4回としている施設が多いですが、経験的に6回まで行なえば充分であることがわかっていますので、6回行なっています。この後、当院で治療終了の目安にしている、抗リンパ球細胞障害性抗体が陽性になっていることを確認します。

前にも述べましたが、原因不明の習慣流産の原因ははっきりとはわかっていません。夫リンパ球による免疫療法は、経験的にはその有効性が確かめられていた一時期もありました。しかしその後、研究が積み重ねられ、現在は否定的な考え方が主流です。1981年に世界で初めてこの治療が始まって以来、幾多の有効であったという論文が出ています。しかし実際に、その作用機序は、流産がなぜ起きるのか、妊娠がなぜ継続するのかという疑問に答えられないのと同様にわかっていません。一応、夫リンパ球に対する抗体が遮断抗体として働くとされていますが、リンパ球にもたくさんの種類があり、どの抗体が本当に有効なのかもわかっていません。

現実には、世界的に多数の患者さんの治療が行なわれています。しかし、将来的に流産の機序が解明された暁に、この治療法の評価がどのようになされるのか現時点ではわかりません。これも経験的な評価でしかありませんが、夫リンパ球免疫療法は副作用のない、問題のない治療法であるとなっています。この治療を受けた後に産まれた子供の経過観察も行なわれており、特に他の自然妊娠で産まれた子供との間に違いは認められていません。

ただ理論上は新鮮な夫リンパ球を患者さんにうちますので、Gaft Versus Host reaction(GVHR)*が起きうる危険があります。これを予防するためには患者さんに注射する前に、リンパ球に放射線をかけるか、抗癌剤処理をして不活性化させる必要があります。以前、私が治療を開始した1987年頃は放射線をかけていたのですが、リンパ球を不活性化処理しなくても問題が起きないという論文がいくつもあり、現在は行なっていません。確かに経験的にはこの方法でも問題は起きていませんが、有効性には疑問があります。しかし、この治療を希望される方には、充分に話をしてから行なっています。

* Gaft Versus Host Reaction(GVHR)移植片対宿主反応
注射した夫のリンパ球が、妻の組織を非自己と認識することによって起こります。皮膚、肝臓、消化管に重い病変を生じることがあります。多くは大量の新鮮血輸血や、骨髄移植の際の問題となります。

追記
習慣流産について
ここまでは一般的な話、数年前まで私が考えていたことです。
現在、実際のところ習慣流産の原因は、親の染色体異常、一部の粘膜下筋腫、一部の膠原病と抗リン脂質抗体症候群のみではないかと考えています。免疫的な異常で流産はほとんど起きないのではないか、リンパ球免疫は無意味なのではないか、と最近は思います。

私は、長野県におけるリンパ球免疫療法のパイオニアだったのですが、今は上述したような考えに落ち着いています。なぜならば、免疫的機序で拒絶反応が起きた場合、何が起きるかといえば組織(胎児および胎児の付属物)が母体からの攻撃を受けるわけですので、出血が必ず起きるはずです。
一般的な移植後の拒絶反応は3つのタイプが知られています。移植後数分で起きる激しい拒絶反応であるhyper acute rejection。移植後10日から3カ月以内に起きるacute rejection。移植後3カ月以降に起きるchronic rejectionの3種類です。

流産をこれに当てはめて考えると、hyper acute rejectionが起きれば、激烈な形できます。着床が始まったごく初期(妊娠3週)に量は少ないでしょうが、必ず出血で始まると考えられます。出血も起きないような段階で受精卵が攻撃されて、妊娠が成立しないかもしれません。こうであれば、妊娠反応がしっかりとでない段階で拒絶されてしまうわけですから、妊娠したかさえわからないのではないかと思います。

Acute rejectionが起きれば、妊娠3カ月までの出血を伴う流産なら、当てはまるようには思います。
Chronic rejectionは血管内膜が感作リンパ球により障害を受け、血管内皮細胞の増生と血管内膜の肥厚によって内腔が狭くなってしまいます。その結果、血流障害を起こし、症状を表すものと考えられます。臨床的に妊娠に伴うchronic rejectionは、私は重症妊娠中毒症の一部の例に認められているのではないかと考えています。

しかし、今の習慣流産は、胎嚢といって赤ちゃんが入っている袋しか見えない流産も、赤ちゃんの心臓の動きが確認できたあと内で心臓が止まってしまった流産も、出血を伴わない流産も伴う流産も、すべて一緒くたに流産の回数に数え上げています。そして、「流産を2回以上しているから習慣流産ですよ、リンパ球治療ですよ」と何も考えずにやっている医者ばかりなのが現実です。かくいう私もかつてはその一人だったわけですが、治療をしながら何かおかしいと考えるようになりました。

出血を伴わない初期の胎嚢しか見えない流産や、子宮内胎児死亡という流産は、偶発的な染色体異常を筆頭にした、先天的な遺伝子異常によって引き起こされていると考えた方が無理がないと思われます。妊娠が判明した頃からずっと出血が続いていて、最終的に大量の出血を伴って自然に胎児がでてしまうという流産を3回以上繰り返している場合にのみ、免疫的な流産の可能性が考えられるようになるのではないかと思います。こういう方々にのみ、まだ実験的な治療ですが、リンパ球免疫療法の有効性が認められるかもしれません。

凝固XII因子活性低下症は、最近いわれていることです。私はこの点について詳しい勉強をしていないので、これについてのコメントはしっかりとはできません。しかし、習慣流産の最近の研究は、妊娠継続中断の本質的な検討が進まないために、重箱の隅的な研究になっているように思います。

確かに数十人のデータを集めてみれば、検討データに多少の偏りが現れてくることもあります。しかし、それが習慣流産の原因と考えられるのなら、流産を起こした人のみに認められ、流産を起こさなかった人には全く認められないというデータでなければ原因の一つと特定できるものにはなりません。以前、高プロラクチン血症が流産に関係するという論文がありました。これなどは最たる例だったと思います。また、ある疾患やある状態が原因として流産が起きているのか、流産の結果ある状態になっているのかをよく考えないといけないと思います。

以前、私は流産の際、末梢血のリンパ球サブセットの変化が来るか否かを調べる研究もしていました。排卵後、妊娠するとしないに関わらず血液検査を行ない、妊娠して継続した症例と、流産になってしまった症例での比較を行ないました。流産になってしまったものは、拒絶反応を示す値が高くなりました。しかしこれは、拒絶反応を示す値が高くなったために流産が起きたわけではなく、流産を起こす結果高くなったものでした。原因ではなく結果だったのです。

また、結果に再現性があるのかも大切だと思います。高温相での子宮内膜にふくまれる単球やリンパ球の差異があるという報告もあるのですが、月経周期はいつもいつも違います。検査した同一人の3周期なり4周期に同じ結果があったのか、繰り返し再現性のあるデータでなければいけません。しかし、おそらく患者さんに大きな苦痛を与える検査をそんなに何回も、同一人に対して行なってはいないでしょう。体外受精をやっているとわかるのですが、治療周期ごとに採れる卵の質も内膜状態も違います。

習慣流産は、まだ原因がはっきりわかっていない疾患です。私のこのような説明では満足せずに、他院に行って検査を行なっておられる方もいらっしゃいます。流産の原因がわからないように、なぜ妊娠が継続するのかもわかりませんから、上述のような方のなかには、偶然にうまく妊娠が継続しておられる方もいると思います。しかし、この説明を読んでいただければ、どのような検査を行ない、どのような治療を行なえばよいかわかっていただけるのではないかと思います。必要ない検査は受ける必要がありませんし、必要のない治療は受ける必要はありません。




おわりに

いろいろな場面で書いているので、承知している方もいらっしゃると思いますが、私が医者になったばかりの頃、その当時大先輩だった先生(T先生のことです)にだまされて、ある文献を読んだことがあります。習慣流産に関する文献でした。それがきっかけとなり、私はこの分野に興味を持ちました。
私が諏訪赤十字病院に出向していたときに、難治の習慣流産の患者Nさん(Nさんは茅野の方でした)に出会いました。Nさんは私が大学へ戻ったあとも来てくださり、無事一人目を出産しました。その後、ご主人の勤務で岐阜に移っていたのですが、第二子を妊娠しました。そして岐阜から大学病院の私のところまで、妊婦検診に通ってくださり、出産されました。Nさんが私にしぶとく食い下がってくれたおかげで、実際の研究治療のスタートをきることができました。

その後、研究治療を続ける中で、何人もの方が妊娠されました。そのなかのお一人に、治療を行なったにも関わらず、流産してしまった患者Sさんがいます。
ここで話は少し逸れますが、私はその当時、リンパ球免疫こそ有効な治療だと信じていました。そういう時代でもありました。流産の原因は治療法にあるのではなく、胎児の偶発的な染色体異常であることを証明しなくてはなりません。
しかしその当時、流産児の染色体検査が可能な施設は(今でこそ簡単に外注メーカーが引き受けてくれますが)ありませんでした。染色体に関する研究をしたことがある大学中の先生、技師さんを捜し出しましたが、最後にはやはり自信がないと断わられてしまいました。そんな中で、篠ノ井病院の検査部長であるS先生(今も現職です)が、検査できるという情報が入りました。なんとか無理を言って頼み込み、検査をしていただいたものです。

その後、Sさんは妊娠出産し、よかったと思っていたところ、第二子を妊娠しました。その経過を見ている中で、胎児の心臓奇形(心内膜床欠損)が見つかりました。こども病院のN先生に相談し、小児心臓の専門家のS先生の診察の予約をとり、子宮の中の胎児を見ていただきました。現在は、こども病院には胎児異常の超音波検査のシステムができあがっていますが、その当時はありませんでした。S先生にとっても、胎児の超音波検査を行なった中では、最初の頃の症例になるのではないかと思います。
患者Sさんは出産後、何回かの手術を経て元気にしているそうてす。その後、私はこちらの病院にお世話になって、Sさんとは縁遠くなっていました。

そんなとき当院の廊下で、Sさんとばったり行き合いました。話を聞くと、知り合いがお産をしたため来られたそうです。しかし私は、Sさんの顔は覚えているものの、誰だったか全く思い出せません。ここで治療をして妊娠した人だったかな? それとも妊娠しなかった人だったかな? あれ、豊科にいたときに治療した人だったかな? 大学にいたときかな? 知っている人なのはよくわかるのですが、どこで接触した人なのか、どういう人なのか思い出せないのです。そのとき、たまたま忙しかったのも本当なのですが。私は「ああ、久しぶり(たぶん久しぶりなのだと思いました)、元気でしたか? 今は忙しいから、またね」とあっさり振りきり、その場を後にしました。

その後、何日も何日も「誰だったかなあ。どこかで治療した、よく知っている人に間違いないんだけどなあ」と考えていました。そして一カ月ほど経ったある日、「ああ、そうだ、Sさんだったんだ」と思い出しました。年をとって記憶力が鈍った、お粗末なお話でした。